常に力と自信に溢れたその強い瞳。

でも、自分を見つめるその瞳は一途で・・・どこか優しく・・・切なくて。

どうしてそんな目で僕を見るの?

君は僕の何を見ているの? 僕の何が知りたいんだろう?

越前・・・

 

Distanse of love  


 何もなかった、そう思おう。

それはいつしか覚えた自分を守る方法だった。

受けた身体の傷は数日もすれば癒える。周りに気取られさえしなければ、残っているのは自分の記憶のみ。その記憶も最初のうちこそ生々しく自分を責め立てたが、その度に大した事じゃない、と言い聞かせることで凌いだ。

そして、笑みをたたえる事も覚えた。

笑みを浮かべてさえいれば、自分は何のダメージも受けていない、と傷を与えた人間達に主張できるし、周囲が仮に自分に違和感を覚えたとしても、笑顔を向けさえすればそれ以上は踏み込んではこない。

それもいつしか自分が学んだ方法で、そしてそれらは今回も変わらない効果を発揮すると不二は思っていた。

・・・でも・・・

 

部活終了後のクラブハウス。厳しい練習が終わった気安さか、賑やかなトーンで話す友人達の会話をいつものように聞くともなく聞いていた不二はふと自分へと注がれるある視線を感じ取る。

“・・・・・”

その先を見なくても視線の主はわかっていた。

離れた場所から注がれるものであるのにもかかわらず、その存在感は圧倒的で、そしてそんな視線を持つ人間はここにはただひとりしかいない。

 眩しい、真っ直ぐすぎるほどのその瞳。

・・・でも、そんな瞳を向けられつつも見返すことの出来ない自分に不二は軽く唇を噛む・・・

 

・・・あの事があった翌日、いつものように朝練に出てきた不二はいつもならその時間に見る事のない後輩の姿に驚いたが、すぐにいつもしているようににこやかに声をかけた。

“昨日は・・・ありがとう”

・・・それは昨日の“痕”をとどめない、完璧な態度と言葉と声。

それをさりげなく、無意識のうちにやっていた事に一種の満足感すら覚えつつ。

でも・・・

 “越前・・・?”

自分の顔を見たとたん、ふっとその眉を曇らせた後輩。

そんな彼の態度にいぶかしげに声をかければ、小さなため息とともに返ってきた言葉。

 “・・・無理しないで・・・って言ったでしょ?”

 “え・・・?”

それは予想もしていなかった言葉だった。

癖になってしまっている笑みはきちんと自分の顔に貼りついているはずだ。

それなのに、何故・・・?

 “だってあんた・・・笑ってない。”

その自分の気持ちを見透かしたかのように彼は静かに口を開く。

 “え?”

 “今のそれ、あんたのホントの顔じゃない。・・・違う?”

 “!”

そう言って真っ直ぐに自分を見つめる彼の視線に、息が詰まるほどの衝撃を感じて。

 “・・・君の・・・気のせいだよ・・・”

それだけを告げるのが精一杯だった。

慌てて彼から顔を背け、早足で逃げるようにその場から立ち去りつつ、不二は激しく混乱していた。

・・・どうして・・・?

誰も気づかなかったのに。そして・・・自分ですらもわからなかったのに。

不二は大きく息を吸い込んで、片手で口元を覆い、そして驚く。

完璧だったはずの笑顔は跡形もなかった。

 

あの瞳は何でも見透かせるというんだろうか?

自分自身ですらわからない心の中をも読み取れるのだろうか?

 

・・・以来不二はリョーマとまともに視線を合わせられないでいる。

そんな自分を知ってか知らずしてか、時折、彼が自分に向けてくる視線。

それは決して冷たいものではなく、彼らしからぬ穏やかさと、優しさを湛えたものだというのに。

・・・怖いのだと思う。

 その瞳に自分の全てが読み取られてしまうかもしれない事が。

今まで崩された事のなかった自分の“砦”が、彼の一言でもろくも崩れかけた事が。

 そして・・・日に日に自分の中で浮かび上がってくる彼の存在が。

 

「・・・ね、不二?」

 「・・・え?」

不意に名前を呼ばれ、不二ははっと我に返る。

 「不二はそう思うよね??」

慌てて首を巡らすと、雑談に花を咲かせていたメンバーの中心にいた菊丸が答えを求めるように自分を見ている。

 「・・・何?英二??」

 「何・・・ってもう聞いてなかったの?」

そう答えた不二に菊丸の頬がぷっと膨れる。 

 「せっかく人が真剣に話してたのに!」

 「ごめんね。」

こんな所でしかも大人数のいる場所で話すことなんか知れたものだが、不機嫌そうに自分を睨む菊丸に不二は素直に謝る。

「ちょっと考え事してたもんだから。」 

 「え?なになに??不二の考え事って?」

と、自分がふった真剣な話はどこへやら、珍しいこともあるものだ、と言わんばかりに身を乗り出してきた菊丸に不二は苦笑した。

 「何・・・って言われても・・・」 

 「ぶーっ、つまんないの!」

曖昧に言葉を濁した自分に案の定、菊丸のブーイングが飛んでくる。

 「不二ってさ、あんまり自分の思ってる事、表に出さないよね??」

それ以上言葉を返さず微笑していた自分に諦めたのか、菊丸は首の裏で腕を組むと、ちろり、と不二を斜め見た。

「何かそういうのってずるくない?」

 「・・・・・」

菊丸の事だ。何気なく言った言葉なのだろう。でもそれだけにその言葉は不二の胸に切り込み、彼から言葉を奪う。

 「・・・でも、誰だって自分の胸の奥に人を踏み込ませてるわけじゃないっしょ?」

・・・と、小さく落ちた沈黙の間を埋めるように、静かな、でもはっきりとした声が会話に割って入った。 

 “!”

淡々とそう言ってのけた声の主・・・リョーマを思わず振り返れば、こちらを見ていた彼と視線がぶつかる。

「・・・自分を曝け出しても、皆がそれを受け入れてくれるかなんてわかんないし、警戒するのはありだと思うけど?」

 “越・・・前・・・?”

自分を見つめながら静かにそう言う彼に不二は思わず息を呑む

「この〜、分かったような事言って!」

・・・見つめ合っていたのはほんの数秒の間だったろう。そんなリョーマに声を上げ、猫のように飛びつき、じゃれかかった菊丸の行動に、絡み合った視線は解かれる。

 「大体お前はクールすぎんぞ!」

 「菊丸先輩、重いっす・・・」

じゃれつく菊丸をうっとうしそうにいなしているリョーマをしばし見ていた不二だったが、小さくため息をつくと荷物を抱えて立ち上がる。

 「あれ、帰るの?」

 「うん、お先。」

いつものごとくの笑顔を皆に向けつつ、部室を出て行く不二を後輩の背中越しに見送る菊丸の眉が微妙に翳る。

と、その背中がドアの向こうに消えるのと同時にじゃれついていた後輩の肩からすっと力が抜けたのを感じ取り、菊丸は小首を傾げた。

 「?どしたの、おチビ??」

抱きしめる手を緩めて不思議そうに問いかけてくる菊丸にリョーマは肩をすくめた。

 「・・・そんな風に言われるには程遠いっすよ。」

 「え?」

 「オレは・・・まだまだクールなんかじゃないっす。」

ぼそり、とそう言うと自分の手を払いのけ、帰り支度を始めた後輩はどう見たってクール以外の何物でもなく、菊丸は再度小首を傾げた。

 

あの日以来、不二に境界線を引かれてしまった事をリョーマは気づいていた。

あんなところを見られたのだ、警戒するのは当たり前のことだ。

でも、自分の視線を避ける不二に胸の奥で鈍い痛みを覚えつつも、彼を目で追う事は止められなくて。

 こんなの、らしくない。

リョーマは大きなため息をつき、うつむくとその足を止める。

あの人がどう思おうと、オレは・・・

やがて何かを決心したのか、その顔を上げたリョーマは思う道へと早足で歩き出した。

 

・・・頭が重く、ぼんやりする。

皆の前では気を張っているせいか、それほどではなかったが、ひとりになった途端に頭の芯に深い疲労を覚え、不二はため息をついた。

近頃よく眠れていないせいだろう。・・・あんな事があった後は決まって夢にうなされる。

あんな事、何でもないことなのに・・・と自嘲の笑みを浮かべた不二の脳裏にひとつの面影が浮かび上がる。 

“彼は僕を咎めているんだろうか・・・”

さりげなく自分をかばってくれただろう後輩の言葉。でもその言葉は菊丸の言葉以上に自分の胸を刺していた。

あの言葉とともに彼が投げかけてきた視線は、最近自分を追っていたものとは違う、力強く、何もかもを見通すような強いそれで。

・・・あんな事をされても何も変わる様子のない自分に、誇り高い彼は耐えかねたのかもしれない。無理をしている、と指摘されてから彼とは話す機会がなかったが、先ほど彼本来の視線と言えるまなざしを向けられ、ひるみすら覚えてしまった事を思い出し、不二は苦笑した。

 ・・・それならそれでいい。

彼は昔の感傷に浸るタイプの人間ではないとは思うが、自分を気にする事で彼が忌まわしい過去を思い出すような事があってはいけない。

不二は自分の右手首にそっと指を触れる。

思いがけない暖かさと強さに満ちた手が触れていったその時を思い出すかのように探りながら、胸の内で何度も繰り返してきた言葉を呟く。

これ以上、彼を巻き込んではいけない。

そして・・・

彼を思うたびにいつからか感じるようになった胸の痛み。不二は小さくため息をつくと、自分を戒めるようにその手首を握り締める。

・・・これ以上、彼を見てはいけない・・・

 

 「今帰りか?」

・・・不意に投げられた言葉に我に返り、後ろを振り返った不二は、すぐ背後に立つ3人連れの顔を見て軽く息を呑んだ。

 「・・・・・」

しかし、表情を揺らしたのは一瞬の事、すぐに不二はその顔から表情を消すと、そのままきびすを返して歩き出そうとした。

 「待てよ。」

しかし、一人に腕をがっしりと捕まえられ、残りの二人に前に回りこまれる。

彼らに囲まれた形になった不二は小さくため息をついた。

 「・・・何の用だ?」

 「冷たい挨拶だな?」

ひややかな視線で睨み上げてくる不二をまるで気にも止めず、彼らは不二へと歩を寄せてくる。

 「まんざら知らない仲じゃないだろ、オレ達は?」

 「・・・・・」

自分の腕を掴んでにやにやと笑いながらそう言う相手に、不二は僅かに眉を上げた。

彼らは同級生・・・と言ってもクラスは違う。何組なのかは知らないが、時折問題を起こしては話題に上っている輩、というくらいの記憶しか持っていない。名前さえもあやふやだ。

とても賛同はできないが、かといって正義感を振りかざし、向かって行くつもりもない自分としては、あんな事があるまではただの同級生達にすぎなかったのだが・・・

 「どけよ。」

強引にその囲みから抜けだしたが、それほど歩かないうちに腕を掴まれる。

 「そんな怖い顔すんなよ。」

腕を掴んだ同級生を睨みつければ、今度は乱暴に襟首を掴み上げられ、傍らの壁に押し付けられる。

 「帰るのはまだ早いんじゃねぇ?」

また、俺達と遊ぼうか?そう言って笑いつつ自分を覗き込んでくるその顔を、目を眇めて見つめていた不二だったが・・・

 「?」

・・・不意に小さな破裂音とともに何かが頬を伝った感触に、きょとん、としたような顔をして、不二の顔を覗き込んでいた少年がその頬に手を触れる。

一瞬の間の後、不二に唾を吐きかけられたことに気づいた少年はその顔を激しくゆがめた。

 「ふざけやがって!」

力任せに不二の頬を殴りつけると、怒りの形相凄まじく、襟首を掴みあげたまま、彼は何度も何度も不二の背中を傍らの壁へと打ちつける。

 「・・・っ・・・」

乱暴なその行動に意識が霞み、くず折れそうになる身体を、襟元を掴んでいる手が無理に立たせる。

 「・・・テニス部の奴らに知られていいのか?オレ達との事??」

 「!」

耳元でそう囁かれ、その目を見張った不二は相手を睨みつけるが、襟首を掴みあげる手は決断を迫るように力が込められる。

「・・・どうしたいんだ?」

ややあって深いため息と共に身体の力を抜き、投げやりにそう呟いた不二に彼らは満足そうに笑った。

 

腕を掴まれ、引き立てられるようにして連れて行かれたのはすぐ近くにある公園だった。

芝生の植え込みに連れ込まれ、乱暴に地面に押し付けられても、不二は諦めたようにされるがまま大人しくしていた。

・・・大した事じゃない、こんな事。

乱暴に衣服を剥がされていく感触に軽く身震いしながら呪文のように胸の内で呟く。

何に対しても心が波立つ事はない。

 波立たせてはいけない。

そう、今までだって耐えられた。だからこれからも・・・

のしかかってくる重みと、身体を這い回る手の感触。それに続く下卑た忍び笑い。

それらを割れるように痛む頭の片隅で捉えながら、息を詰めて固く閉じた瞼。

その裏に不意に浮かんだひとつの面影。

“僕はこんな奴なんだよ。”

太陽のような、強い、眩しいその瞳に不二は薄く笑った。

こんな事、大した事じゃないと思える奴なんだよ・・・

 “・・・無理しないで・・・って言ったでしょ?”

と、不意に耳の奥で鮮やかに蘇る声。

“だってあんた・・・笑ってない。”

 “今のそれ、あんたのホントの顔じゃない。・・・違う?”

 「・・・ちぜ・・・」

ふ・・・と唇からもれた呟き。

その自分の声にはっと目を見開けば、自分の身に行われている行為がその視界に飛び込んできて、不二は愕然とした。

 僕は・・・何をしてる・・・?

こんなところを見られたくない。もう二度と・・・

・・・気づくと体が自然と動いていた。

「!な・・・っ!」

抵抗しないと安心しきっていたのか、のしかかっていた少年は容易に脇へと振り払えた。

残りの二人も、不意を付かれたのかその動きをただ見ているのみだ。

不二はその隙をついて起き上がると、そのまま茂みから抜けだした。

 「待てよ!」 

「!」

が、いくらも行かないうちにその腕を掴まれ、嫌というほど強く引かれる。

そのまま力任せに引き戻され、傍らの木に叩きつけられるように身体を押し付けられた不二はその衝撃に顔を歪めた。

 「ここまで来といて、今更逃げるのはなしだぜ?」

苦痛の色を浮かべる不二に欲望を刺激されたのか、下卑た笑いを浮かべた少年はその手を不二の下肢へと滑らす。

 「・・・っ!」

「お前だって痛い目ばかり見るより楽しんだ方がいいんじゃね??」

不二の股間に手を触れ、やわやわと動かしながら少年は不二の顎に指をかけるとその顔を上向かせる。

「や・・・めろ・・・っ!」

かぶりを振ってその自分の指から逃れようとする不二ににやにやしながら、少年は自身の唇を不二のそれへと押し付けようとした。

・・・と・・・

 「!!!」

背後で何かが弾けるような高音が聞こえたかと思うと、木に押し付けた不二をとり囲むようにして立っていた仲間の一人の押し潰されたような声が響いた。

 「っ!」

間を置かず、自分の頬にも激しい勢いで何かが撃ち当たり、その衝撃と痛みに少年は身体をよろめかせ、顔を歪めた。

 「・・・なんだ?」

慌てて頬を押さえつつ首を巡らせば、少し離れた場所に学生服姿の少年が立っているのが見えた。

テニスラケットを手にし、ボールを地面にバウンドさせているその姿は小柄で、まだ子供といった背格好だ。

にもかかわらず自分達を睨みつけるその視線とその威圧感は圧倒的で、息苦しさすら感じさせる。

 「・・・いい加減にしなよ。」

バウンドさせていたボールを握りこみ、その顔を上げた少年が口を開いた。

それは少年が発する声とは思えないほど低くしわがれていて。

 「越・・・前・・・」

不二は驚きの目を見張って彼・・・リョーマを見つめていた。

 「さっさとその人から離れなよ。」

そう言って一歩一歩こちらに近づいてくる彼は怒りの形相すさまじく、その目つきは視線で人が殺せるのであれば見られた者は瞬時に死ぬであろう程の殺気を湛えている。

自分の知る彼とはまるで別人のようだ。不二も息を詰めて近づいてくるリョーマをただ見つめていた。

 「ち・・・きしょう!」

その雰囲気に圧倒されながらも、相手が小さな少年であるという事に気をとりなおしたのか、最初の一撃を受けた少年がリョーマに向かって突っ込んでいった。

 それをよける気配もなくじっと見つめるリョーマ。

彼が至近距離に来たのを見計らい、手にしたラケットを鮮やかに回転させたリョーマは何の躊躇もなく、飛びかかってきた相手の喉めがけてそのグリップを突き上げた。

「ぐぁ・・・っ!!」

異様な声を上げてのけぞり、喉を抑えて苦悶するその脛をすかさずラケットで狙う。

 「骨、折れたかもね?」

手にしたラケットがすっぽ抜けるほどの勢いでそれを脛に叩きつけたリョーマはしれっとそう言うと、声もなくその場に膝を付いてうずくまる少年の横腹を力任せに蹴り上げ、その仰向けになった腹に片足を乗せた。

 「さあ、次はどっち?」

その腹を踏みにじりながら、薄笑いすら浮かべて自分達を見据えるリョーマを見かけどおりの相手ではないと悟った彼らは一旦は腰が引けかける。

 「どうしたの?怖いの??」

そんな彼らをあざ笑うかのようにリョーマはそう言うと、向かって来い、と言うように手招きした。

 「のやろ!!」

その行為に挑発された一人が上ずった声をあげ、リョーマに飛び掛って行った。

その拳をすれすれでよけたリョーマの頬が不意に温かくなる。

 「越前!」

不二の驚いたような声と、遅れて走った鋭い痛みに頬に手をやれば、赤いものが指を濡らした。

 「ふーん・・・」

それだけの動きに肩を激しく上下させ、自分を見つめる少年の手に小型のナイフが握られているのを見て、リョーマは眉を吊り上げた。

 「ま、いいけどね。」

その言葉に誘われるように少年はナイフを振りかざしてリョーマに迫ってくる。

 二度、三度、顔に尽きかかってくるその攻撃を寸前でかわしながらリョーマは大きく後ろに跳び下がった。

自分目がけて突進してくる少年が、ナイフを振りかぶるぎりぎりまで引きつけておいて、リョーマは彼の脇へと身を滑らすと、その脇腹を蹴りつけた。

 「うわ・・・っ!!」

その俊敏さに身体をかわす事もできず、その攻撃をもろに受けた彼はリョーマに蹴り飛ばされた勢いのまま倒れている仲間に蹴躓く。

 「離さないと指がへし折れるよ。」

そのまま仲間に折り重なるような形で倒れこんだ少年の手をリョーマは思い切り踏みつけた。

 「ぐ・・・っ!!」

体重をかけリョーマが何度も何度も容赦なく拳を踏みつけてくるのにたまらず、手の力を抜いた彼はその手を危険なおもちゃごと力任せに蹴り飛ばされ、痛みにうめく。

「越前!後ろっ!!」

・・・不意にかけられたその声にはっと後ろを振り返れば、自分のラケットを手に残りの一人が殴りかかってくるところだった。

 “!”

その一撃はかわしたものの、身体を翻して後ろへと下がろうとして引いた利き足を今しがた倒れた一人の腕に引っかけ、バランスを崩したリョーマはその場に尻餅を付く。

 「・・・って・・・」

 「このチビ!!」

自分のすぐ脇に座り込んだリョーマに、チャンスとばかりに手を蹴られた少年が馬乗りになる格好でのしかかり、拳を振り上げた。

 「・・・っ!」

繰り出されたそれは至近距離ゆえよけ切れず、頬に一発くらってしまったリョーマだが、ダメージは向こうの方が大きかったらしい。半ばリョーマの蹴りで潰れていた拳は皮肉にもその一撃で完全に潰れたらしく、殴った瞬間、少年は苦しげな声を上げて体勢を崩す。

すかさずその隙をついて、リョーマは少年の顎に自分の掌底を掬い上げるように叩き込むと、同時に膝を思い切り彼の股間に打ち当てた。

 「!!!」

それこそ声も出せずに仰け反る身体を脇へと振り払い、立ち上ろうと身体を反転させたリョーマだったが・・・

 「・・・のガキが!」

・・・一瞬の隙を突いて最後の一人がリョーマの腕を掴みあげていた。

身体を半分捩ったうつ伏せの状態で腕を掴まれたためその手を振り払う事ができない。

頭を地面に押し付けられ、地面に這わされた状態で腕をきめられてしまったリョーマは自分の不覚に唇を噛んだ。

 「痛いか?」

リョーマの腕を捩じりあげながら最後の一人はようやく余裕を取り戻していた。

 「お前、テニス部みたいだな?だったら腕は大事だよな?ん??」

逃がすものか、と言わんばかりにリョーマの腕をぎりぎり捩じりあげながら少年は薄笑いを浮かべる。

 「このまま力を入れ続けたらどうなるかな?」

あらぬ方向に曲げたリョーマの腕が軋みを上げ始めているのを感じ取り、彼は楽しむようにそう問いかける。

 「止めろ!」

その行為に悲鳴のような声をあげたのは不二だった。

 「その手を離せ!!」

 「うるせぇ!」

その制止を怒鳴り飛ばしておいて、少年はリョーマの反応を窺う。

 「どうする?このまま腕を折られたいか??」

・・・しかし、自分を見上げてくる彼の瞳には怯えの色はなかった。

 「やれよ。」

無様に許しを乞うと思っていたはずのリョーマが薄ら笑いを浮かべ、反対に嘲るようにそう言い放ったのに少年はその顔を驚きに歪める。

 「まさか怖気づいたってわけじゃないよね??」

・・・リョーマの戒められていない左手の指先は落ちているラケットグリップに触れていた。

そのことに気付かれないように、リョーマは男を挑発する。

 「それとも一人じゃ何にも出来ないの??」 

「!この・・・ガキが!」

その挑発に頭に血が上ったらしい少年が、捩じり上げた腕を折るべく一気に力を込めてくる。

 「・・・っ!」

その痛みに顔を歪めながらもリョーマの左手はしっかりとラケットグリップをキャッチし、力いっぱい握りしめていた。

後はこれを後ろにはらうだけだ。

勢いを殺すつもりはないから、顔や頭に当たればかなりの打撃だろう。

“それ”を効果的に打ち当てる角度を計算しつつ腹に力を入れ、勢いをためたリョーマは次の行動に移ろうとした。

 “?”

・・・と、不意に捩じり上げられていた腕への圧迫が止まる。

それを不審に思ったリョーマは背後を振り返り、その目を見開いた。

 「先輩・・・」

いつ来たのか不二が自分のすぐ脇に跪いている。

そしてその手には先ほど自分が蹴り飛ばしたナイフが握られており、その切っ先は自分の上に乗った少年の喉元へと突きつけられていた。

「止めろ・・・って言ってるだろ?」

・・・恐ろしく冷たい声だった。

今まで一度も聞いた事のない不二のその“声”にリョーマは軽く息を呑む。

「・・・お前にそんなもの扱えるわけないだろ?」

ナイフを突きつけられている事実に顔を歪めながらも口調だけは相変わらずふてぶてしい少年に不二はその目を細めた。

 「・・・どうかな?」

 「!」

・・・不意に頬を掠めた感触に反射的に頬を押さえた少年は、その濡れた感覚に自らの手のひらを見つめる。

「・・・へぇ、結構切れるんだね?これ??」

 「!」

手のひらを濡らしている赤いものにぎょっとしたような顔をした少年にどこか楽しげにそう言うと、不二は再びその目を細める。

「お・・・前、自分が何やってるかわかってるのか!」

「それはこっちのセリフだよ。」

自分の身に起きた事に怒りに震え、声を荒げる少年に動じる事もなく、冷ややかな声を浴びせかけた不二は、再びその喉元にナイフの切っ先を突きつけ薄く笑った。

 「君達みたいな人種はみんなそうだね。すぐ調子に乗る。」

・・・それは知っている今までの不二の姿ではなかった。

男を見据えるその瞳はぞっとするほど冷たくて、口元に笑みを刻みながらも決して笑っていない。

その豹変といってもいい不二の変化に少年は完全に呑まれてしまっており、それはまたリョーマも同じだった。

 「僕が何にもできないとでも思っているんだね?そうだろ??」

そんな二人をよそに淡々と不二は続ける。

「でも僕も我慢できない事がある・・・許せない事もね。」

・・・と、不意に不二がその足でリョーマの上に乗る少年の横腹を蹴りつけた。

 「!」

隙をつかれてよろめく身体を二度、三度容赦なく蹴りつけた不二は、リョーマの背に乗る

少年を半ば引き剥がすように足で乱暴に地面へと転がす。

 「ぐ・・・ぅ!」

苦鳴を上げ、転がるその姿を横目にしながら、身軽になったリョーマは地面から跳ねるように起き上がる。

 「先輩!」

腕に残る痛みに顔をしかめつつ不二の姿を目で追えば、彼は地面に倒れて呻く男の横に跪くところだった。

 「ねぇ?このナイフ、切れ味いいみたいだね?」

地面にうつ伏せ呻く少年の髪の毛をわしづかみ、上向かせ、その切っ先を再び彼の喉元に当てがった不二の顔にはあの笑顔が張り付いたままで。

 「頚動脈って知ってる?・・・ここなんだけど、ここを切れば簡単に人は死ぬらしいね?試してみようか??」

 「や・・・めろ・・!!」

つい、と刃を滑らせ事も無げにそう言う不二に少年はたまらず上ずった声をあげた。

 「僕もさっき止めろって言ったよね?君はそれを聞いてくれたの??」

しかしそんな彼に不二は動じる風もなく、むしろ諭すように語りかける。

「僕のいう事は聞かずに自分の意見だけ通そうとするなんて虫がよすぎない?それに・・・」

ナイフの切っ先を見つめていた不二の瞳が、ゆっくりと少年の瞳を捉える。

「君は・・・君だけは許せない。どうしても・・・」

 「!」

今まで氷のような冷たさを湛えていたそれに、さっと光のように“感情”が走る。

その激しさに少年は絶句し、凍りついた。

「先輩!」

・・・と、鋭い声と共にナイフを握る手が強く戒められた感覚に、不二はその表情を固くした。

 「・・・もう、よしなよ。」

自分の制止にぎくしゃくと振り返った不二にリョーマは諭すように言う。

 「そこまでする必要はないよ。」

 「・・・なせ・・・」

 「・・・え?」

 「離せ!」

しかし、その声が届かなかったのか、不二はその手の戒めをとろうと激しくもがき始めた。

 「こいつは越前を傷つけようとした。越前の・・・腕を!」

 「先輩・・・?」

 「何故、越前が傷つかなきゃならない?オレのせいで??」

そう言う不二の目にはリョーマは映っていなかった。その目にははっきりと狂気が湛えられており、それが激しく燃えている。

「オレに関わったせいであの子がダメになってしまったらどうすればいい??」

 「せ・・・」

 「あの子からテニスを奪ってしまうことになったら・・・あの子の輝きを、可能性をオレのせいで奪ってしまったら・・・」

その激しさそのままに彼は叫び、その腕を離そうともがく。

 「そんな事絶対に許さない!許せない!!」

「オレは大丈夫っすよ。落ち着いて!!」

そんな激しい不二の叫びを遮るように、リョーマは彼の肩を揺すぶる。

 「オレの声、聞こえる??オレはここにいるっすよ!!」

 「離せっ、離せったら!」

 「先輩!」

自分の言葉も聞かず、なおも暴れる不二の顔をリョーマは両手で挟んで自分の側に向ける。

 「ほら、ちゃんと見て!オレはここにいる。大丈夫でしょ?ね??」

そう言って不二の瞳を覗き込み、彼の瞳に自分の姿を映すリョーマ。

「う・・・」

自分の姿を見て、ふっと揺らいだその瞳を見てとったリョーマはその手を不二の身体へと回した。

 「!」

腕の中で固く強張る不二の身体。それに構わずリョーマはその身体をきつく抱きしめて。

 「離せ・・・っ!」 

「オレは大丈夫・・・だから・・・」

それでもなお抵抗を続ける不二にリョーマは懸命にそう言い聞かせる。

 「あんたが悪いんじゃない、あんたのせいじゃない。」

・・・この美しい人はいままでどれだけの傷を押し隠してきたのか。

こんなにぼろぼろになるまで、痛みを痛みと感じなくなるまで自分の感情を押し殺して。

その痛ましさにリョーマの胸は激しく痛み、不二を抱きしめる腕に力を込める。

「・・・頼むからそんなに自分を責めないで・・・」 

リョーマのその言葉にリョーマの腕から抜け出ようともがいていたその動きが一瞬止まる。

抵抗の緩んだその身体をリョーマは、今度は優しく宥めるように抱いて。

 「・・・あんたが傷つく必要なんてない・・・これ以上・・・」

・・・傷ついた不埒な連中が、よろめきながらこの場を立ち去る後姿が目に映ったが、それには構わずリョーマは不二を抱きしめ続ける。

 「オレはここにいるよ・・・だから・・・」

だから・・・オレを見て?ここにいるオレを・・・あんたの傍にいるオレを。

徐々にではあるがその重みを自分に預けてくる不二に、切ないまでの思いを抱きながらリョーマは胸のうちで呟く。

オレ・・・あんたを守りたい・・・何に変えても。

「先輩・・・」

ありったけの愛しさを込めたその声に、腕の中の不二がぴくり、と身体を震わせた。

「・・・え・・・ちぜ・・・ん・・・」

無意識のうちに呟いた自分の声と、緩んだ手から滑り落ちたナイフが地面に落ちて立てた乾いた音に不二ははっと我に返った。

 「越前・・・越前!」

叫ぶように自分の名前を呼んで顔を上げ、すがるように腕を掴んだ不二にリョーマは目をしばたいた。 

「腕は・・・?君の腕!!」

そんな彼の驚きも見えていないのか、必死の形相で不二はリョーマの左手の肘と肩にその手を触れてくる。

「・・・え・・・?」

「折れてない?筋、痛めてない??」

 「・・・大丈夫っすよ。」

 「ウソ!」

強い調子でリョーマの言葉を遮ると、その瞳を覗きこんでくる不二。

「あんなに捩じりあげられてたのに平気なわけないでしょ??」

「・・・捩じられてたのってそんなに長い時間じゃなかったっすよ?」

その恐ろしく真剣なまなざしにリョーマは困ったような顔を作る。

「それに・・・右手っす。」

 「・・・え・・・?」

 「捩じられてたのは右。気が付きませんでした??」

 「・・・あ・・・」

そのリョーマの言葉に不二は小さく声を上げる。

・・・そう言われればそうだったかもしれない。視界に飛び込んできたその手にリストバンドは付いていなかった事を改めて不二は思い出す。

 「・・・じゃ、利き腕は・・・左は大丈夫なの??」

 「・・・っす。」

 「・・・そう・・・」

安心したのか、深い息を吐き出した不二は張り詰めた糸が切れたかのようにぐらり、とその上体をよろめかせた。

 「だ、大丈夫っすか?」

 「・・・バカだよ、君は。」

そのよろめいた身体をすかさず支え、自分を気遣う後輩に不二は目を見開き、その唇を噛み締めた。

 「・・・え・・・?」

 「どうしてここにきたの?僕なんか放っておけばよかったのに、どうして?」

そう言ってうつむいた不二の声が揺れているのにリョーマは眉を寄せる。

 「先輩・・・」

「君は・・・僕の・・・他人のために自分の大切なものをなくしてもいいの??」

 「え・・・?」

 「そんな事は愚かだ。ばかげてる!!」

 「せ・・・」

 「僕のせいで、君の未来を閉ざしてしまったら・・・・僕は・・・っ!」

そう叫ぶように言った不二の頬に伝わったしずくを見てリョーマは軽く息を呑んだ。

 「泣いて・・・るの?」

 「・・・あ・・・」

リョーマにそう言われて頬に手を当てた不二は小さく声を上げる。

 「オレのために・・・泣いてくれてるの?」

頬を染め、再び俯いてしまった不二をリョーマは切なそうに見つめる。

 「・・・あんただって同じじゃん。」

 「え・・・?」

 「あんただってさっきオレを守ろうとした。あんなに冷静で、自分をセーブしていたあんたが、自分の事ですら怒った事のないあんたが・・・どうして??」

 「・・・それは・・・」

 「あんたは自分で思っているほどつまんなくも冷たくもない。そう思い込もうとしているだけだ。」

 「越前・・・」

 「あんたは優しい人だよ。だからあんなに胸を痛めてた。我慢してた。あんな奴らや、周りを気にして。」

 「違うよ・・・僕は・・・君のように変わろうという意思が持てなかっただけなんだ。」

不二は唇を噛み締める。

 「ただやり過ごせればいいと思ってた、単なる臆病者だよ。」 

「臆病者とは違うよ。だって、あんたはオレを守ってくれようとしたじゃない?それに今は違う・・・そうでしょ?」」

「越前・・・」

自分を支えてくれる後輩の腕に力が込められるのを感じ、不二は恐る恐る顔を上げる。

 「頼むからもっと自分を大切にしてよ。でないと、オレ・・・」

 「あ・・・」

 

・・・怖いものなんてないと思ってた。でも、初めてそれを自覚した。

僕の怖いもの、それは・・・

でもこんな思い、どうしたらいい・・・どうしたら・・・

激しい混乱の中、不意に視界が激しく揺らぐのを感じ、不二はその目を閉じる。

忘れていた頭痛が頭の芯から蘇り、それはふわふわとした浮遊感を伴いつつ一気に押し寄せてくる。

 「先輩・・・先輩!」

自分を呼ぶ後輩の声がやけに遠くから聞こえ、自分の身体の重みが急激に遠のいていく。

そしてその代わりに包み込むような温もりが全身を包み込んで。

 “越前・・・?

近くなったリョーマの姿とその匂いに、その温もりが彼のものであるという事がわかる。


“あの子に、彼に抱きしめられているんだ・・・”

その事実にどこかで安堵感を覚えながら、不二はゆっくりとその意識を手放した。